2014年12月30日火曜日

新作予告 「ジミー・ザ・アンドロイド」

 新作の完成がいよいよ間近に迫ってまいりました。今回の作品は、アンドロイドをテーマにしたSF長編ファンタジーです。これまでのものとは打って変わって、コンピュータサイエンスに踏み込んだ、私にしては異色の作品となっております。
 発売は遅くとも2週間後一ヶ月後をめどにしております、その暁には是非ともご高覧のほど、お願い申し上げます。




ジミー・ザ・アンドロイド
               作  如月恭介
画  宗像久嗣





プロローグ

 十二月の中旬の土曜日、空には鉛色の雲が低く垂れ込め、東京の街には冷たい木枯らしが吹きつけていた。厚手のコートの襟を立て、凍える両手をポケットに突っ込むと、榊(さかき)原(ばら)竜(りゅう)介(すけ)は背中を丸めて駅への道を急いだ。空気は痛いほどに凍り付き、あまりの寒さに思わず身震いするほどだ。しかし寒いのは気候のせいだけではなかった。
 日本の経済は、まるでこの褪(さ)めた冬景色のように、すっかりその色を失っていた。世界第三位の経済大国とは名ばかりで、かつての栄華は見る影もない。長らく続いた円高に活力をすっかり奪い取られてしまった製造業は、今度は急激な円安に見舞われ、慌てて海外から生産拠点を引き揚げるのに躍起になっている。しかしことはそう容易ではない。自由貿易協定という欧米や中国にとって極めて都合のいいルールが足かせになり、どうにも身動きが取れないのだ。外圧にいいなりの主体性のない政治、それが原因であることは言うまでもない。
 街を歩けば、絶望感と焦燥感に満ちた澱んだ空気の先に、色褪せたコンクリートの群(ぐん)塊(かい)が霞んで見える。その群塊の中で、やはり色褪せた人々が、目に見えぬ恐怖に怯えながら、かといって戦う気力も失い、ただひたすらに目先の仕事に不安からの逃げ場所を探していた。
 五年前、ギリシャから始まりスペイン・ポルトガル、さらにはフランスまでをも巻き込んだ史上最悪の欧州経済危機が何とか収束したとき、人々は胸をなでおろし、ひと時の安堵に浸ったものだ。しかしそれも束の間、すぐに新しい危機が襲ってきた。欧州でひと儲けしたヘッジファンドの次の獲物は、あろうことかこの日本であった。いや、最初からこの国を獲物にすることが目的であり、欧州危機はその目的のために仕掛けた単なる布石に過ぎなかったのである。
 一年前、主要格付け会社が一斉に日本国債を格下げした。それも一度に五段階、裏でヘッジファンドが糸を引いていたのは言うまでもない。いきなり『投機的』というレッテルを張られた日本国債は、滝を流れ落ちる落水のような暴落を演じた。金利は禁酒法下のウィスキーのように暴騰し、それにさらに怒涛の円安が追い打ちをかけた。原材料・燃料、さらには食料に至るまでの生命維持に必要な『血と肉』を海外に頼りきっていた日本にとって、この急激な円安は、瀕死の患者の傷に塩を擦り込むような残酷な仕打ちとなった。
 品川駅で千百六十円の切符を買って、JRの改札をくぐった。行き先は渋谷である。失(な)くすまいと大切に切符をポケットにしまい、ホームに滑り込んできた電車に慌てて駆け寄る。開いたドアの向こうに、人もまばらな閑散とした車内の景色が広がった。それも無理はない。下げ止まりはしたものの給料は一向に増える気配を見せない上に、この物価の高騰である。吸い込む空気にさえも料金を請求されそうな勢いだ。世の多くの庶民は週末も家に閉じこもり、できる限り出費を抑えようと身を潜めている。
 渋谷駅で電車を降り、駅前でタクシーを拾った。窓に貼られた黄色いステッカーには『初乗り三千円』。まるで五・六十年前のバブル期の六本木の夜のようだ。
 くたびれた革のアタッシュケースを膝の上に大切そうに抱え、榊原竜介は後部座席に腰を滑らせた。窓の外に目をやると、寂(せき)寥(りょう)とした景色の中に、すっかり荒廃した社会の様相がぼんやりと浮かぶ。しかし榊原にとってはそれも対岸の火事にしか過ぎず、彼の顔は、なぜか夢と希望に満ち溢れていた。
 もうすぐだ――夢にまで見た究極の『マシーン』がようやく完成する。三十四歳の時から無我夢中で取り組み、はや二十年の歳月を数えていた。
 道玄坂で車を降りると、榊原は目の前の白いビルの入り口に歩み寄った。迷わず銀色の案内板に視線を這わす。目的の場所はすぐに見つかった。エレベータに揺られて六階で降り、『インテリジェンス財団』と記(しる)された白いドアの前に立つ。大きく息を吸い込み、震える指で呼び鈴を押した。ほどなく濃紺のタイトスーツに身を包んだ八頭身の若い女が現れ、榊原はガラス張りの洒落た部屋に案内された。待つこと五分、ようやく担当者が姿を現した。能面のように無表情な顔の、オールバックに髪をなでつけた若い男だ。男は開口一番切り出した。
「例のものはお持ちいただけましかな?」
「もちろん――」
 榊原は首を小さく縦に振り、机の上にアタッシュケースを置いて蓋を開けた。そのままテーブルの上を滑らし男の前に突き出す。
「では、さっそく内容を確認させていただきましょう」
 男は細い手を伸ばして書類を掴み、艶のない爬虫類のような目を動かした。油で固めた頭がねっとりとした光を放ち、まるでゴキブリのようだ。しばらくして男はゆっくりと顔を上げた。
「確かに承りました。審査に一か月ほどお時間をいただきますが、おそらく問題はないでしょう。認可が下りれば、さっそく手続きに入らせていただきます。第一期助成金として五億、指定口座に振り込ませていただくことになります――」
 ビルのエントランスを出ると、榊原は大きく背伸びをした。鉛色の雲の向こうにうっすらと太陽が霞み、そこから滲む光がたいそう弱々しい。しかし未来を見据える彼の心には、眩しいほどに明るい曙(しょ)光(こう)が、真夏の太陽のように燦(さん)々(さん)と降り注いでいた。
 榊原がインテリジェンス財団のことを知ったのは、今から二か月ほど前のことである。なんでもアメリカに拠点を置く財団とかで、世界中の有望な研究案件を発掘してそれを支援し、科学技術の発展に寄与することがその目的なのだという。近年に財を成した数名の有志が立ち上げた財団だそうで、一年前に榊原が学会で発表した論文に興味を持って、先方から支援を申し出てきたのだ。その論文というのは、まったく新しい概念のコンピュータに関するものだった。榊原が四半世紀もの長き時間を費やした、まさに彼の学者人生を捧げた研究の集大成である。
 ――一九五十年にフォン・ノイマン博士が蓄積プログラム方式・逐(ちく)次(じ)実行型の画期的なマシーンを発表して以来七十余年、コンピュータ技術は目を見張る発展を遂げてきた。ちょっとした部屋ほどの大きさもあった筐(きょう)体(たい)は手のひらに収まるほどにコンパクトになり、かつてフィラデルフィアの街の明かりを奪ったともいわれる大食漢も、今では電池二本で駆動が可能である。しかもその性能は、当時のマシンの一億台分にも匹敵するのだ。こうして大発展を遂げてきたコンピュータではあるが、じつはその基本原理は今も何も変わらない。格納されたプログラムを、決められたルールに従って順次実行しているだけなのだ。
 二十年前、そのことに疑問を持った榊原は、いったんコンピュータの世界を離れ、人間の思考回路の研究に没頭した。常識という呪縛を取り払い、もう一度原点に回帰すべきだと、彼は考えたのだ。寸(すん)暇(か)を惜しんで研(けん)鑽(さん)を積むうちに、彼はあることに気づいた。それは、『考える』ということの意味である。計算したり、記憶したり、あるいは検索することにかけては、今やコンピュータの能力は人間をはるかに凌(りょう)駕(が)している。しかしいかにコンピュータが性能を上げようとも、いかにその機能を向上させようとも、決して人間には及ばないことがある。それが、『考える』という営みなのだ。「どうすればいいだろうか」と悩んだり、「こうするといいかもしれないな」とアイデアを練ったり、あるいは、「ああすればよかったかな」と自分の行為に対して反省をするといった、人間にとってはごく当たり前の思考作業が、コンピュータにはできないのである。
「なぜだろう?」
 榊原は知恵を絞った。そして彼は、ある画期的な考えを思いついた。いったん思い立つと、もう居ても立ってもいられない。その日から二十年間、彼は無我夢中で『考えるコンピュータ』の開発に没頭した。
 そして今から一年前――
 一台のコンピュータを前にして、榊原の体は小さく震えていた。まさか、という疑念と、やはり、といった確信が、興奮に熱を帯びた彼の頭の中で複雑に交錯していた。
「ジミー、これはなんだい?」
 榊原は、コンピュータに繋(つな)がったカメラの前にグラスを突き出した。
「キラキラしてる……ダイヤモンド?」
 コンピュータが喋った。
「違うな。もっと壊れやすいものだよ」
「キラキラしてて、壊れやすいもの……」
 しばらくコンピュータは黙り込んだ。そして自信なげに答えた。「氷?」
「それも違う。これはグラスというんだ。飲み物を入れる容器だよ。ガラスでできているんだ」
「容器? ガラス? なにそれ?」
 まるで、溢れる好奇心を抑えきれない幼い子供のようだ。榊原はあまりの感動にそれ以上言葉が続かなかった。グラスに満たされたウィスキーを口に運び、目を細めて感慨にふける。やはり自分の考えは間違っていなかった――。
 榊原はこのマシーン、いやプログラムに、『ジミー』と名付けた。彼の傾倒するウィリアム・ジェームズにちなんでつけた名前である。ウィリアム・ジェームズというのは十九世紀後半に活躍した哲学者であり、彼の残したかの有名な一節が、このプログラムをつくるきっかけにもなったのだ。
 心が変われば行動が変わる
 行動が変われば習慣が変わる
 習慣が変われば人格が変わる
 人格が変われば運命が変わる
 榊原は、この一節の中の『変わる』という単語を、『生まれる』という単語に置き換えて、自分なりに解釈した。すなわち――
 心が生まれれば行動が生まれる
 行動が生まれれば習慣が生まれる
 習慣が生まれれば人格が生まれる
 人格が生まれれば運命が生まれる
 心を吹き込めば、人格、すなわち『魂』が宿るに違いない――そう考えたのだ。そしてここで言う『心』こそが、彼がこのプログラムに包(ほう)蔵(ぞう)させた『自ら考える能力』に他ならない。もちろん、それで本当に魂が宿るのか、じつは彼にも自信はなかった。論理的な根拠など何もないのだ。しかしやってみなければわからない。いや、やってみる価値がじゅうぶんにある。彼はそう考えた。
 それからさらに一年が経ち、『心』を吹き込まれたジミーには、榊原の思惑どおり『魂』が宿った。これだけでも十分画期的なことである。しかし榊原の感動はすでに、次の夢を追いかける終わりなき探究心へとその姿を変えていた。このまま会話を続ければジミーは成長し続けるに違いない。幼児から子供、子供から大人へと育ち、人間をも超える存在に成り得るかもしれない――。しかし、それを阻(はば)む大きな壁が立ちはだかっていた。その壁とは、『記憶容量』である。今のジミーの脳の大きさはわずか一千テラバイト、これでは八歳児の思考能力が限界である。少なくともその百倍、いや一千倍は欲しいところだ。しかし今主流のハードディスクはせいぜい十テラバイト。部屋中を記憶装置で埋め尽くしてもこと足りない。
 しかし、榊原にはそれを解決する画期的なアイデアがあった。ただしそれを実現するためには途方もない資金が必要だ。そんな折、インテリジェンス財団と名乗る団体から資金提供の申し出があったのだ。榊原にしてみれば、まさに渡りに船であった。未曽有のインフレが吹き荒れる今のご時世、五億円という金額は決して十分とは言い難かったが、それでも当面の費用は賄える。迷うことなく彼は財団の申し出に飛びついた――

 桜の花が咲き始め、吹き寄せる風にも春の香りが漂い始めた三月の下旬。射し込む陽光はとても穏やかで、視線を上に移すと、蒼(そう)々(そう)と澄んだ空が果てしなく広がっている。いかに経済が落ち込もうとも、いかに社会が荒(すさ)もうとも、自然は変わりなく人類を温かく見守り続けている。
 その年の四月、湘南の鵠(くげ)沼(ぬま)海岸に、ひとりの中年男性の水死体が打ち上げられた。東京大学教授、榊原竜介である。通報を受けて駆け付けた警察官によると、絡みついた海藻から覗いたその顔には笑みが浮かび、まるで菩薩のように穏やかであったという。
 その榊原の死からわずか二か月後、アメリカのシリコンバレーで、とある会社が産(うぶ)声(ごえ)を上げた。インテリジェンス・コーポレーションという、社員数わずか六名の小さな会社だ。シリコンバレーといえば、新興企業が雨後の竹の子のように次から次へと生まれ、そして次から次へと消えていく、いわばベンチャー企業のメッカである。ちっぽけな新興企業のことなど気にかける者などほとんどいなかった。
 しかしまさかこの小さな会社が、その僅か十年後に世界を――いや人類の運命さえをもすっかり変えてしまうことになろうとは、誰ひとり想像だにしなかった――

2014年12月7日日曜日

よくある慣用表現の誤用 #言葉のお勉強

 今回は、誤用しがちな慣用表現についてのお話しです。それではさっそく間違い探しといきましょう。
 以下の各例文には誤った表現があります。間違いを探して、正解も考えてみてください。

1.彼は話術の名人だ、口先三寸で聴衆を魅了してしまう

 答え) 口先三寸 ⇒ 舌先三寸

 ※「口八丁」(口が達者なこと)と「舌先三寸」が混同したのでしょうか?

2.戦いの火蓋が切って落とされた

 答え) 火蓋をが切って落とされた ⇒ 火蓋が切られた もしくは 幕が切って落とされた

 ※「火蓋を切る(ひぶたをきる)」と類語の「幕を切って落とす(まくをきっておとす)」が混同してしまったのでしょう。火蓋というのは火縄銃の着火口の蓋のことで、これを開けることを「切る」といい、落としてしまってはいけませんね。

3.次期社長候補として、彼に白羽の矢が当たった

 答え) 白羽の矢が当たった ⇒ 白羽の矢が立った

 ※白羽の矢というのは、日本古来の風習あるいは伝承で、生贄を求める神が、望みの少女の家の屋根に人知れず立てたと言われるもの。

4.彼は同僚に足もとをすくわれた

 答え) 足もとをすくわれた ⇒ 足を掬われた

 ※「足もとに火が付く」や「足もとを揺さぶる」等、他に「足もと」を使う表現があって、影響したのかもしれません。

5.その夜、彼は熱にうなされた

 答え) 熱にうなされた ⇒ 熱に浮かされた

 ※「悪夢にうなされる」と混同したのでしょうか。

6.その報告を聞いて、僕は怒り心頭に達した

 答え) 怒り心頭に達した ⇒ 怒り心頭に発した

 ※心頭とは心の中のことで、怒りが心の奥底から沸々と湧いてくることを言います。心頭は、あくまでも出発点なのです。

7.彼の意見はしごく的を得ていた

 答え) 的を得ていた ⇒ 的を射ていた
 
 ※「当(とう)を得る」(道理にかなっているという意味の慣用句)と混同したのでしょうか? ただしこれは誤用ではないという意見もあります。でもあまりに有名な誤用の例なので、使うと笑われるのがオチでしょう。

8.「待ち時間が長すぎて間が持たなない

 答え) 間が持たない ⇒ 間が持てない

 ※間違えたからといって恥ずかしいことではありません。なにしろ、平成22年度「国語に関する世論調査」では、本来の言い方とされる「間が持てない」を使う人が29.3パーセント、本来の言い方ではない「間が持たない」を使う人が61.3パーセントという、逆転した結果が出ているのですから。

9.なでしこジャパンには男子代表の雪辱を晴らして欲しいものだ

 答え) 雪辱を晴らして ⇒ 雪辱を果たして

 ※これは「雪辱」という言葉の意味(屈辱を晴らす)を理解していれば、「晴らす」が重なった重言(じゅうげん)であることがわかると思います。

10.今やなでしこジャパンは、押しも押されぬ、世界の強豪チームである

 答え) 押しも押されぬ ⇒ 押しも押されもせぬ

 ※おそらく類義語の「押すに押されぬ」が混同したものと思われます

 以上、間違い探しはお終いです。いかがでしたか? 恥ずかしげもなく文豪を自称するみなさま方のこと、全問正解であったに違いありません。
 では続けて、今度は意味を間違えやすい慣用表現をご紹介しましょう。それぞれの意味を考えてみて、それから答えを見てください。意外と間違って理解している表現があるかもしれません。

1.役不足

 能力に対して、役目が軽すぎること

 ※能力が足りない、は間違いで、こっちは「力不足」と言うべきでしょう。

2.すべからく

 (当然)すべきこととして

 ※「すべて」という意味ではありません。

3.さわり

 話の中心となる部分。聞かせどころ

 ※冒頭部分、という意味ではありません。

4.憮然

 失望してぼんやりしているようす

 ※ふてくされている様子ではありません。

5.檄(げき)を飛ばす

 自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること

 ※気合いを入れたり激励することではありません。

6.しおどき

 物事を行うのに最も良いとき

 ※もうそろそろ諦めた方がいい頃合い、というのは間違いです。

7.気が置けない

 心から打ち解けることができる

 ※油断できない、ではありません。そっちは「気を許せない」ですね。

8.敷居が高い

 不義理・不面目なことなどがあって、その人の家に行きにくいこと

 ※高級料亭に入りにくい時などに使うのは誤りです。

9.姑息

 一時しのぎ

 ※ひきょう、という意味ではありませんよ。

9.確信犯

 自分の信念が正しいと強く思って犯す罪

 ※すっかり有名になってしまった、誤用の代表的な例ですね。「悪いことであると分かっていながらなされる行為」ではありません。

 以上、いかがでしたでしょうか。初めて知った、という誤用の例もあったのではないでしょうか。心配しないでください。実は小生も、書きながら、自著で数多くの誤用をしていたことに気づいた次第です。

 それでは今回は、これにてお終い。

2014年12月6日土曜日

作文の基本ルール #言葉のお勉強


 今回は、日本語の文章を作成する上でのルールのお話です。「そんなの興味ないね、オレはオレのやり方で書くから」とおっしゃる御仁もいらっしゃるでしょう。気持ちはわかります。しかし、世の多くの読者はそうはお思いになられないのです。ルールというのは、読者がより自然に、そしてより容易に内容を理解するためのものであって、書く側の都合で勝手に決めるべきものではないのです。だからこそ、読みやすさを追求して出来上がった基本的なルールを守ること、それがとても重要なわけです。
 とは言っても、守るべきルールがそうたくさんあるわけではありません。その数少ない基本ルールを以下ご紹介させて頂きます。

1.段落では改行し、次の段落の最初に一文字分のスペースを入れる。(字下げ)

 商業出版でこれを守っていない文章はまずありませんが、Blogや投稿サイトなどではよく見かけます。この字下げをやっていない文章は極めて読み難いし、それ以前に、見た瞬間に読むのをやめてしまう人も多いと聞きます。今回ご紹介するルールのなかでも、最も重要なものと言えるでしょう。

2.三点リーダー(……)を正しく使う

 三点リーダーというのは「」のことで、けっしてドットを3つ続けて書いた(・・・)ものではなく、3つの点がセットで一文字になった特殊な記号です。日本語入力ソフトで「さんてん」と入力して変換すると出てくるはずです。この三点リーダーは「……」といったように必ず2つをセットで使います。例えば、

「なんということだろう……

 のようにです。(さも絶句した様子が伝わってきますね)

 時にはさらにそれを2セット続けて使うこともあります。例えば、

…………

 のようにですね。完全に絶句しています。

3.ダッシュ(――)を正しく使う

 用法は先の三点リーダーと同じです。必ず2つをセットで使ってください。用途は特に決まっているわけではありませんが、小生の場合は主に、時間的なギャップを表現するのに使用しています。

 それから3ヶ月後――
 
 「――というわけで、彼は全財産を失った」


4.感嘆符や疑問符の後にはスペースを入れる。句点は付けない。

 あれっ どうも変だぞ。あーっ なんてこった……

5.「(括弧開き)で始まる段落は字下げをしない

 そうして彼の退屈な日常がまた始まった。それから三ヶ月後――
「あれー? おかしいなあ……」
 彼は首を傾げた。
 
6.」(括弧閉じ)の前後に句点を入れない

 ×1.「いいねいいね、これいいね。」
 ×2.「いいねいいね、これいいね」。
 ○3.「いいねいいね、これいいね」

 ※1の用法は、じつはプロの方でも使われることがあります。でもそれは著名な方だからこそ許されるのであって、ゴミのような我々がそれをやったら、たんなる無知と思われるだけです。こんなところで個性を発揮するよりも、もっと他のことに力を入れた方がいいでしょう。(じつは2も使われることがありますが、あまり一般的な用法ではないので、ここではNGとしました)

 以上です。えーっ、もう終わりかよ、とお怒りのあなた、そんなあなたに素敵な参考書をご紹介。そう、作文のバイブルとも言える、本多勝一氏著作の「日本語の作文技術」です。作文におけるさまざまなルールはもとより、句読点の効果的な使い方や、文章のリズムや文体等についても詳しく言及されています。


 



 では今回は、これにて終了。



2014年12月5日金曜日

カタカナの使い方 #言葉のお勉強

 さて皆さん、作文を書く(重言ですねw)とき、どういう場面でカタカナを使用しますか? あるいは読書をするとき、どういったときにカタカナ表記に違和感を覚えますか?

 その話に入る前に、まずは、カタカナの由来についておさらいをしておきましょう。カタカナの起源は9世紀初頭にさかのぼり、漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略したものだと考えられています。つまり、

国破山河在

 を和読するために、

国破レテ山河在

 としたわけですね。こういう出生がゆえに、カタカナは漢字の音や和訓を注記するために使われることが多く、記号的・符号的性格が強いわけです。正式な言葉とは言いかねるような、擬音語、擬態語、外来語に使われるようになったのもうなずけるというものです。

 ではここで今一度、カタカナ表記をするのが一般的なものについておさらいをしておきましょう。

1.固有名詞(地名・人名・組織名・団体名・題名など)
  ハワイ、マイケル、ソニー
2.外国語(日本人のカタカナ英語・ブロークン英語を含む)
  ホワーイ
3.外国人による日本語(の音声)
  コンニチワ
4.外来語(和製英語を含む)・近代音による漢語
  スパゲッティー
5.擬音語・擬声語
6.動物や植物の和名・俗名
  キリン、ブタクサ
7.強調。(英語ではイタリック体で書くような場面)
  あのオジサンはとてもカッコイイ

 まあ学校で習ったまんまであり、学業優秀なられる読者様であればいまさらであることは十分承知の上、話を進めましょう。
 注目すべきは、もちろん5番の擬音語・擬声語ですね。これは同時に、「擬態語はひらがなで表記する」という意味も含んでいるわけです。
 これらの表記に関しては、ここで話題にするのもはばかれるくらい議論がなされてきました。よく取り上げられる選択問題を、ここで改めてご紹介しましょう。

1.星が(きらきらキラキラ)している。
2.犬が(わんわんワンワン)ほえた。
3.うさぎが(ぴょんピョン)とはねた

 答えは、そう青文字の方ですね。すんなり全問正解した人は、優等生で面白みのない人。自信満々で全問不正解だった人は、もう救いようのない語学オンチ。そして、わかっているけどわざと間違えたあなたは、とんだへそ曲がり野郎ですね。
 しかし私には、へそ曲がり野郎の気持ちがよくわかります。星は当然のようにキラキラだし、うさぎは誰がなんと言おうとピョンだろう、と。そしてそれは私だけではなく、世の多くの著名な作家にも言えることなのです。たとえば、

志賀直哉 『万暦赤絵』  (玄関へ)ドヤドヤ(と出迎へた) 
片岡鉄兵 『思慕』  カツと燃え立ちさうな
中山義秀 『厚物咲』 ペコペコお辞儀をしながら
宮沢賢治 『やまなし』 キラキラッと黄金きんのぶちがひかりました

 そして極めつけが、江戸川乱歩。たとえば「百面相役者」。
 一ページ目からさっそく、「――いやにドロンと曇った春先の――」、三ページ目には「――サッサと外出の用意を――」、同、「――テクテク歩いて――」,続けて「からだじゅうジットリ汗ばんで――」等々、わずか数ページでこのありさまなのです。彼が先の問題を解いたなら、おそらく0点だったでしょう。まあなにしろ、エドガー・アラン・ポーを漢字にして、それをペンネームにしてしまったくらいですから、これも仕方がないのかもしれませんね。(断っておきますが、江戸川乱歩の擬態語の使い方はけっして不自然ではなく、読む者を摩訶不思議な世界へ引きずり込む、絶品でなのです)

 僕の個人的な考えとしては、きちんとルールを理解したうえで、時には変化をつける、あるいはアクセントをつけるといった意味で、こういう掟破りも有りなのでは、と思います。
 ただし、著名な作家がやるから意図的なものだと思われるのであって、無名な我々がそれをやったら、たんなる無知の誤用と思われるだけかもしれませんけどね。

いつものようにオチはないけど、今回はこれにてお終い。

2014年12月4日木曜日

錯覚をおぼえる? 重言のお話 #言葉のお勉強

 さて皆さん、表題に違和感をかんじましたか? かんじない? それは困りましたね。いや、この文章にも違和感をかんじてほしいところです。お分かりの方はすでにお分かりのように、これは誤った日本語の用法で、「重言(じゅうげ」といいます。まあ、わかりにくいようにあえてひらがなで表記したわけですけれど、

1.錯覚を覚える
2.違和感を感じる

 こうやって漢字で書くと一目瞭然、同じ意味の言葉を繰り返していて、不自然な表現であることがわかりますね。まあ2は慣用上許容されるとの見解もあるようですが、美しくないことに変わりはありません。せめて「違和感を覚える」とでも表記したいところです。
 そんなこと言われなくとも知っとるわ、と仰る御仁もいらっしゃるでしょうが、意外とこの重言、BlogやSNS等で普通に使われていたりします。(さすがに商業出版物では見かけることはあまりありませんが)

 特に間違えやすいのが、付けなくてもいい余計なものを付けてしまうことです。たとえば、

古来から
太古の昔
背中に背負う

 そう、正しくはそれぞれ、古来(意味:ふるくから)、太古(意味:大昔)、背負う(意味:背中に担ぐ)、ですね。言われてみれば気づくものの、書くときには案外と見逃しがちなものです。

 ところで、重言かどうか非常にわかりにくい、というか、人によって解釈の異なる表現もあります。たとえば、

旅行に行く

 ですが、直感的には特に違和感を覚えない人も多いのではないでしょうか。(実際、日常の会話では普通に使われているように思います)
 なぜかというと、それはこの旅行という単語が、「旅に行く」という意味だけでなく、「旅」そのものを表す単語として定着しているためです。それどころか、「旅に行く」ではあまりに古風に聞こえてしまい、むしろ「旅行に行く」の方がしっくりくる人も多いかもしれません。ただ、文字にすると「行」が続いてしまうため、美しくないと思う方もいらっしゃるでしょう。であれば、

旅行に出かける

 とでも書けばいいのではないでしょうか。といっても、もし「旅行に行く」が重言だとすれば、「旅行に出かける」もまた重言なのです。なにしろ「行く」も「出かける」も意味は同じなわけで、「旅に行く」に行く、という重複した表現であることには変わりないわけです。しかし不思議なもので、「旅行に出かける」と書くとまったく違和感を覚えないものですね。

 それから、重言ではあるけど、慣用的に許された用法というのもあります。特に多いのが、最初や最後を使った言葉です。

一番最初、一番最後

 この用法はもはや強調表現として一般に受け入れられており、たとえば「もの凄く強烈」なんかと同じなわけですね。また、強調とは違いますが、一般に用法が定着しているものとしては、他にも、

被害を受ける(被害を被る)

 というのもありますね。正しくは「損害を被る(=被害)」なわけですが、そんな言い方をする人の方がもはや稀でしょう。

 まあ、解釈もひとそれぞれで、正誤に関しても曖昧なことの多い重言ですが、読む人が違和感を覚えたり、あるいは稚拙さを感じたりしないように、出来るだけ注意した方が良いかもしれませんね。

 ということで、今回はこれにてお終い。

2014年12月3日水曜日

俳句のまとめ 其の一 #俳句

朝起きて 夜寝るまでも パジャマかな 読まぬなら 読ませてやろう このやろう あらすてき ユニクロ見せ合う 昼下がり 腹減った さっき食べたでしょ 悲しいね(字余り) おーまいが こぼれた酒を なめちゃった フーアーユー なに言ってんだ この毛等 バカ娘 アイカツフォン見て ニタッと笑った 小説を 書けば書くほど ちょうせつない ああねぶい できることなら 寝ていたい 腹減った 小説書いても 飯食えねえ レビューがねえ 書いても書いても まるで無視(字余り)

2014年12月2日火曜日

時代と共に変化する言葉 #言葉のお勉強

 さて、「腰が重い」という慣用句がありますが、もちろんその意味は、「やる気がない」だとか「やる気が起こらない」ということで、まさに私にぴったりの言葉なわけですね。そしてその反義語はというと、「腰が軽い」であり、一般的には「フットワークが軽い」といった良い意味で使われることが多いようです。(「軽率」という悪い意味もありますが、この意味で使われることは少ないように思います)

 これと似たような表現に、「尻が重い」というものがあります。腰を尻に変えただけで、その意味はというと、やはり「やる気がない」ということだそうですが、小生はこの言葉にはあまり馴染みがありません。使っている人も見たことがありません。そもそも、「彼女は尻が重い」とか言ってしまったら、別の意味(物理的な意味)に捉えられてしまい、えらい事件に発展しそうではないですか。(やはり「腰が重い」の方がしっくりきますね)
 一方で、「尻が軽い」という言葉はいたってポピュラーで、ただしその意味はというと、決して「尻が重い」の反対にはなっていません。そう、これは女の浮気性を表す言葉ですね。そして尻が軽い女のことを、世間では尻軽女というわけです。(尻が軽いを辞書で引くと「動作が敏捷である」という意味も記されていますが、この意味で使う人はまずいないでしょう。「君は尻が軽いね」と、仮にいい意味をこめて言ったとしても、その瞬間に、あなたと彼女の人間関係は二度と修復困難な状況に陥るに違いありません) 
 ところで、「尻が軽い」以外で、浮気性と同じ意味を持つ言葉にはどんなものがあるでしょう?

身持ちが悪い 放蕩 淫蕩 ふしだら

 おおっと、興味深い言葉が出てまいりましたね。

ふしだら

 この「ふしだら」、漢字ではどう書くのでしょうか? さっそく調べてみました。 ありません……。まあ、無理やり書くとすれば、「不修多羅」ってところでしょうか。どういうことかというと、その語源から説明しなければなりません。
 この「ふしだら」という言葉、サンスクリット語の「sutra」を音写した「修多羅(シュタラ)」が語源のようです。「sutra」というのは、古代インドで教法を書いた葉を束ねて閉じるのに使った紐のことだそうで、それが「修多羅」と音写され、正確でゆがみがなく秩序よく束ねることを意味するそうです。それが音転訛して「しだら」となり、それに否定の「不」をつけて「ふしだら」になったとのこと。

 ところでこの「ふしだら」と語感も意味も似ている、「だらしない」という言葉がありますが、こちらの語源は何なのでしょうか? じつはこの「だらしない」という言葉、元は「しだらない」という言葉だったのです。それが音位転換と言って、文字の順番が入れ替わって出来たものらしいです。この「しだらない」の「しだら」は、「自堕落」という「好ましくない状況」を表す言葉が転化したようで、それに強調の意味の~ないを付けて、しだらない。意味は、現在のだらしないと同じで、「締まりがなく、秩序がない」です。とある本によると、本当かどうかは知りませんが、この「しだらない」という表現は、いまだに山梨県に残っているそうです。
 それにしても「しだらない」が「だらしない」……こうなるともう、マスコミ用語の「ジャーマネ」(マネージャー)や「ぐんばつ」(ばつぐん)とかと何も変わりませんね。
 ちなみに、これと同様に音位転換をしたものに、「新しい(あたらしい)」という言葉があります。この「新しい」は、じつはもともとは「あらたしい」で、これが音位転換をした結果であり、こうなるといつか将来、「わんばんこ」だとか「うらまやしい」とかも、正しい言葉として定着するかもしれませんね。