2016年5月31日火曜日

執筆中の新作の冒頭部分をご紹介 その4

前回の続き――

 それから一週間後の六月中旬――
 関東地方も梅雨入りし、低く垂れ込めた曇天に街中がすっぽりと覆われていた。その日の夜も、祥子は例の七転八起のカウンターに座っていた。
「こう毎日雨が続くと洗濯物も干せないわ」
 祥子がぼやくと、
「へえ、祥子ちゃんも洗濯なんてするのかい」
 間をおかずに主がからかった。それを女将がたしなめる。
「失礼じゃないの、あんた。年ごろの娘さんに向かって、まったくもう」
「ありがとうおばさん。でももう、年ごろってわけでもないけどね」
「なに言ってんの。じゅうぶん若いし、まだまだこれからよ。それにこんなに綺麗なんだから」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
 祥子は苦笑いを浮かべ、焼酎の入ったグラスをゆっくりと揺らした。
「そういや先週のスクープはまたすごかったじゃねえか」
「なんだっけ?」
「三栄銀行のあれだよ。徳田とか野郎のからんだ」
「ああ、あれね」
「あれね、じゃねえだろう。難しい経済のことはよくわからねえけど、そんな俺でもびっくりしたくらいだ。これから大変なことになるんじゃねえのかい。三栄銀行も、徳田ってやつも」
「さあどうかしら――」
 祥子は素っ気ない返事をすると、女将特製の茄子の漬け物に箸を伸ばした。
「どうかしら、ってあれだけの悪事がすっぱ抜かれたんだ、ただじゃすまねえだろう?」
「そう簡単にはいかないのよ」
「どういうことだよ」
「いいおじさん。今回公にされた情報だけでは、三栄銀行も、徳田武彦も、すぐには告発できないの」
「どうして?」
「問題は、投資信託よ」
「投資信託? 例のあれかい、徳田商事が買ったとかいう?」
「そうよ。徳田商事が二百億円で、三栄のキプロスの子会社、SBトラストから購入。そしてケイマンのイースト・ファイナンスに五十億円で売った、投資信託よ。今回問題なのは、その投資信託の実際の価値なの。もちろんそれに二百億の価値があったのは間違いないわ。でも仮に三栄が、それはすでに目減りしていて五十億円の価値しかなかったと言い張ったら、どうなると思う?」
「さ、さあ……」
「違法なことは何もない、ってことになってしまうの。資産価値が五十億に目減りしたから徳田商事は百五十億の損失を計上した。そしてキプロスのSBトラストは、その五十億の価値の商品をケイマンのイースト・ファイナンスに五十億で譲渡。それを徳田個人が八十億で購入。脱税もなければ、横領もなし。そういうことになってしまうのよ」
「あっ、なーるほど! うまいこと考えやがったもんだ」
「感心してる場合じゃないわ」
「おお、わりい。あっ、でもそれだったら、その投資信託とやらの実際の価値を調べりゃいいじゃねえか。もしそれに二百億の価値があるとわかりゃ、連中の悪事が証明されるってことだろ」
「無理ね」
「無理?」
「どうやってケイマンの会社の所有する投資信託の中身を調べるっていうのよ。そんなことができるなら誰も苦労なんてしないわ。それに万が一それができたとしても、そのときにはその投資信託は、きっと別のものとすり替えられてるわ」
「なんてことだい……それじゃ、けっきょく三栄銀行や徳田って野郎が儲けて、それでお終いってことかい」
「ううん、それだけじゃすまないのよおじさん。徳田商事は百五十億円もの損失を出したのよ。これは本来一生懸命に働いた従業員たちにも還元されるべきもので、しかもその損失の分だけ、徳田商事がこの国に払う税金も減っているの。もっと言えばその利益は配当金として大株主の徳田に払われ、徳田はそれに見合った納税をしなきゃならかったの。つまり三栄や徳田は庶民のお金をむしり取って、税金も払わずに、それをまるごと自分たちの懐に入れたってことなの」
「なんともひでえ話だな。どうにかならねえのかい」
「私たちにできるのはここまでよ」
「じゃ、祥子ちゃんたちのしたことは無駄だったってことかい」
「そんなことはないわ。法では裁けなくても、三栄や徳田が悪事を働いたのは、誰の目にも明らかなんだから。それにこれだけ大騒ぎになったのよ。当局だって、今までみたいに黙って見過ごすわけにもいかないでしょうよ。メンツにかけても調べるに違いないわ」
「それもそうだな……」
 主はまだ納得がいかないという様子で腕を組み、渋い顔をして厨房の中に佇んでいた。

 そしてその翌日、世間の耳目が三栄銀行の話題に集まる中、例の政治家がついに辞任を表明した。
 祥子にしてみればそれはとうぜんの成り行きであり、選民意識に取り憑かれたこの傲慢で強欲な政治家に対して、微塵の同情も感じる余地はなかった。しかし彼女の心は言い知れぬ虚無感に襲われていた。
 この男のことを本当に非難できる人間なんて、いったいどれだけいるんだろう――
 同じ状況におかれたとすれば、きっと多くの人間が、程度の差こそあれ、似たような行動をとったに違いない。ひとりの人間の個人的な問題だけではかたづけられない、何か根本的な、現代社会の内包する大きな問題が隠されているような気がしてならなかった。
  その後もジャパン・ウィークリーは、大企業、銀行、著名な企業家らの疑わしい取引の実態を暴き、毎週のように衝撃的なスクープを流し続けた。
 そして梅雨の明けた七月の中旬、またもや大事件が勃発した。日本を代表する老舗の総合電機メーカー、あの五洋電気に、十年以上にも亘る粉飾決算の疑惑が持ち上がったのだ。しかし今度の事件はジャパン・ウィークリーのスクープではない。彼らの競合ともいえる『週間真実』によるものである。ことの発端はどうやら内部告発らしい。
「たいへん……」
 この国の経済界に、何か想像を超えた大きな変化が起きようとしている。そんな気がして、祥子は手にした新聞を思わず握り締めた。

―― 第一章終わり。第二章はこちら

2016年5月30日月曜日

執筆中の新作の冒頭部分をご紹介 その3

前回の続き――


 それから一週間後――
 祥子は例のリストの精査を続けていた。めぼしい会社をピックアップしてはその会社にかかわる情報を洗い出し、それらをとりまとめて編集長に報告する。すでに全リストの三分の二ほどを調べ終え、五十件ほどの会社を抽出していた。どれも叩けば埃の出そうな、怪しいものばかりだ。
「もう少し調べたらお昼にするかな」
 十一時半を回った時計に目をやり、彼女はひとり呟いた。そしてふたたびパソコンに向かって両手を伸ばした。カタカタとキーボードを叩きながら、その目はじっと画面を追いかける。
 とそのとき、彼女の手が止まった。
「イイジマ・タケシ……」
 聞いたことのない名前だ。住所は横浜市の西区みなとみらい、祥子のアパートからそう遠くない場所だ。その男はフェニックス・パートナーズという、これまた聞いたことのない会社の役員に名を連ねていた。無名の会社の無名の男、しかも代表ではなくたんなる役員、本来なら迷わず無視するところだが、なぜか祥子はその男のことが気になった。どうせ昼まで中途半端な時間しか残っていない。この会社のことでも調べて午前の仕事は終わりにしよう――祥子はさっそく膨大な資料の検索を始めた。
 それから二十分後、祥子は椅子の背もたれに寄りかかり、じっと考え込んでいた。頻繁に行われる資金の移動、しかも毎回数億ドルにも及ぶその膨大な金額。はたしてこの会社を調査対象にすべきかどうか――しかしこの会社の代表はマイク・ダグラスという、住所がサンフランシスコのアメリカ人だし、これを追いかけるのは自分たちの仕事じゃない。放っておいてもアメリカの当局が調べるに違いない。そう考えて、彼女はパソコンの蓋を静かに閉じた。
 それからさらに二週間が過ぎ、またもやジャパン・ウィークリーのスクープが世間を騒がせた。そして同時に、身に覚えのある企業や資産家たちを震撼させた――
『三栄銀行の不可解な取引』
 ケイマン・リークスのリストに三栄銀行の名前があがっていたことはすでに報じられていたが、それ自体は特に驚くことではなかった。なにしろかつて国際決済銀行(BIS)が公表した資料によれば、百兆円をも超える膨大な日本の投融資資産が租税回避地で運用されているのだ。そしてそのうちの六十兆円強がケイマン諸島で運用されていることも明らかになっていた。といっても租税回避地に会社を設立すること自体は合法であり、そこを通じてオフショア・ファンド等で資産運用することも違法ではない。だからこれまではそのことが特に大きな問題として報じられることはなかった。
 ただしそれは、租税特別措置法にしたがって適切な税務処理がなされていればの話だ。もしそれに違反していればもちろん違法行為ということになる。しかし租税回避地での取引は厳格な秘密保護によって守られていて、現実にはその資金の流れを捕捉することは不可能に近い。
 ところが今回のケイマン・リークスの漏洩により、その資金の流れの一部が明らかにされたのである。
 それは祥子がケイマン・リークスのリストから抽出した、ある日本人の所有するペーパーカンパニーの調査が発端となった。そのある日本人というのは、徳田商事の会長、徳田武彦である。ケイマンにある徳田の所有する会社が、やはりケイマンにあるイースト・ファイナンスという会社から八十億円もの投資信託を購入していたのだ。といってもこのこと自体には問題はない。問題はこのイースト・ファイナンスという会社の所有者である。ケイマン・リークスの情報からこの会社が、じつは三栄銀行の子会社であることが判明したのだ。
 祥子の報告を受け、さっそくジャパン・ウィークリーの編集長・大嶋は、編集部員の佐々木にさらなる調査を命じた。そしてその結果、限りなく怪しい取引の実態が浮かび上がったのである。
 イースト・ファイナンスが徳田の子会社に販売した八十億円の投資信託は、じつはイースト・ファイナンスが、キプロスにあるSBトラストという会社から五十億円で購入したものだった。キプロスも租税回避地であり、通常であればその取引は表に出てこない。しかし今回の調査で、そのキプロスのSBトラストも三栄銀行の子会社であることが判明したのだ。しかもそのキプロスの投資信託は、徳田が会長を務める徳田商事が二百億円で購入したものであることがわかった。
 もう少しわかりやすく時系列に並び替えて説明すると、徳田商事は三栄銀行の子会社であるキプロスのSBトラストから二百億円の投資信託を購入した。それがケイマンのやはり三栄銀行の子会社、イースト・ファイナンスに五十億円で売却された。これによって徳田商事は百五十億円もの損失を出した。しかし一方でその五十億円の投資信託は、ケイマンの徳田会長個人の所有する会社に八十億円で売却された。ここで重要なのは、売却価格が八十億円といっても、この投資信託の実際の価値は(運用による損益を無視すれば)二百億円だということだ。
 つまり収支をざっくりと机上計算すると、
一.徳田商事が百五十億円の損失を計上。
二.ケイマンのイースト・ファイナンス(三栄銀行の子会社)が三十億円の利益を計上。
三.徳田会長個人が、実際価値二百億円の投資信託をわずか八十億円で取得。
 ということになる。もしこれが事実だとすれば、脱税どころのさわぎではない。徳田商事の失った百五十億円が、三栄銀行の三十億円の手数料と、徳田会長の実質百二十億円(二百億円―八十億円)の投資信託に化けてしまったのだ。脱税、横領がセットになった、前代未聞の大事件である。
 これまでも、複数の租税回避地を利用することで資金の流れを複雑にし、当局の目をごまかす手法が横行していることは指摘されていたが、その実態の多くは掴めないでいた。しかし今回のジャパン・ウィークリーのスクープにより、その一端が明るみに出たことになる。

2016年5月29日日曜日

執筆中の新作の冒頭部分をご紹介 その2

前回の続き――

 ジャパン・ウィークリーが調査を進める間にも、海外ではすでにその情報は猛烈なスピードで駆け巡り、一大事件となって世を騒がせていた。名前を掲載されたイギリスの首相・マッカランは苦しい弁明に明け暮れ、アイスランドの首相はなんと辞任にまで追い込まれてしまった。ロシアの大統領も青息吐息だ。
 そしてその二週間後――
 ようやくこの日本でもその事件が広く知られるようになった。発端はジャパン・ウィークリーの記事だ。といってもその反響は、これまでのスクープに比べればいたって静かなものだった。芸能人や政治家のゴシップに比べれてそれは、一般民衆にとっていまひとつピンとこない、捉えどころのない記事に過ぎなかったのだ。しかしその一方で、名前を掲載された政治家や企業家や資産家にとっては虚を突く衝撃的な事件であり、放っておけば致命傷になりかねない一大事であった。彼らは鎮火に向けた早急なる対応を迫られていた。
 その先陣を切ったのが、高木電脳だ。そう、ネット通販で国内最大のポータルサイト『自由市場』を運営し、プロ野球球団の『自由ライナーズ』のオーナーでもある、あの新興の大企業である。あろうことかその高木電脳の社長である高木正人の個人名が、ケイマンリークスのリストに代表者としてリストアップされていたのだ。雑誌の発売された翌日の火曜日、さっそくその高木が、高木電脳のウェブサイトを通じて弁明のメッセージを発信した。
『ケイマンに会社を設立したのは事実です。しかしそれは会社の設立や清算手続きが簡単に行えるのが理由であり、取引を迅速に進めるのが目的であります。けっして租税回避を目的としたものではありません。じっさい顧問税理士からは、日本の税務当局から求められた必要な情報を開示し、法律専門家から意見を聞いた上で正しく納税を済ましていると聞いております。したがって、まったく違法性はないと認識している次第です』
 対策マニュアルをコピーしたようなこのメッセージに、投稿サイトやSNSはとうぜんのように大炎上した。しかしなぜか大手マスコミはこの話題を避けるようにして、例の政治家の醜聞を流し続けていた。
「まったくこの国は……」
 店に置かれた新聞を放り投げ、吐き捨てるようにそう言うと、祥子はグラスのビールを飲み干した。
「おだやかじゃねえな祥子ちゃん。なんかあったのかい?」
 カウンターの奥で、定食屋の主が怪訝な表情を浮かべた。
「ううんべつに。そういえばおじさん、この店の七転八起って名前、どういうわけでつけたの?」
 祥子が訊ねると、主は一瞬その顔に暗い影を落とし、でもすぐにいつもの温和な表情を浮かべた。そして時計に目をやり、「十一時か……もう客は来ねえな」小さくつぶやくと、女将に向かってしゃがれた声を上げた。
「おい登美子、おめえも一緒に一杯やるか」
 女将は丸い顔に満面の笑みを浮かべ、
「あらいいわね。じゃ、さっそく用意するわね」
 白いエプロンで手を拭きながら、弾むように厨房に向かった。
 主は腰を上げ、「どうせもうこねえだろうけど、いちおうな」そう言って店の外に出て、『営業中』と書かれた札をひっくり返した。そしてまた戻ってくると、
「祥子ちゃんは焼酎でいいよな?」
 祥子の顔を覗き込んだ。
「うん、もちろんロックでね」
 祥子が笑うと、主も目尻に深いしわを寄せた。
 主は祥子の向かいに腰を下ろすと、厨房に向かって大きな声で怒鳴った。
「おーい登美子、はやく焼酎を持ってこい!」
 女将も慣れたもので、
「はいはい」
 間をおかずにボトルとグラス、それにアイスペールの載ったお盆を持って現れた。女将がそれをテーブルの上に置くと、主はさっそく二つのグラスに氷を満たし、そこにボトルを傾けた。そして一つを祥子の前に置き、残ったもう一つを自分の口に運んだ。
「くー、こりゃうめえや」
 目を細めテカった頭をくねらせながら唸ると、またグラスを口に運んだ。それを見た女将があきれた声でたしなめる。
「あんた、乾杯くらいしたらどうだね」
「なに杓子定規なこと言ってんだ。今夜は無礼講だ。なあ祥子ちゃん」
「そうよ。ほら、おばさんもはやく」
「はいはい」
 苦笑いを浮かべて返事をすると、女将は厨房に戻り、ジョッキを手にしてふたたび現れた。
「なんだ、ビールかよ」
「とりあえず、ってやつよ。じゃ、もう飲んじゃってるけど、乾杯」
 女将が嬉しそうにジョッキを掲げた。祥子もグラスを持ち上げ「うん、乾杯」女将のジョッキに軽くぶつける。すると主はバツが悪そうに小さくグラスを上下に揺らし、「お、おうよ」蚊の鳴くような声で呟いた。
 その様子がおかしくて祥子がつい吹き出すと、主は想い出したように訊ねた。
「そういやさっきはなにをぼやいてたんだい? ずいぶん怖い顔してたけど」
「うん、これよ」
 祥子は椅子の横に放った新聞を拾い上げ、それを主の前に広げて見せた。
「ああ、例の政治家のあれかい。ひでえもんだよな。公金をてめえの財布のように思ってんじゃないのか。政治家は清廉高潔であれ、なんてもう死語だな。真面目に働いて税金収めんのがばからしくなっちまうよ。そういや、これをスクープしたのも祥子ちゃんとこだったよな」
「うん。でももう終わった話よ。ここまでくれば放っておいてもみんなが引導を渡すわ。それよりも、いまはもっと報じなきゃならないことがあるの――あ、そうだ、で、おじさん、お店の話は? 七転八起って名前のことよ」
「ああ、そうだったな……」
 主は視線を手にしたグラスに落とし、じっと見つめながら言った。
「この店を始めたのは、たしか二十五年ほど前のことだ。それまでの五年間は『満腹食堂』っていうフランチャイズの店をやってたんだ」
「え、満腹食堂って、あのイソダイ・グループの?」
 イソダイ・グループというのは磯辺大吉という、かつては実業家として名を馳せた、いまは衆議院の代議士をやっている男の創業した、日本を代表する外食産業の雄である。
「ああそうだ。世の中いまほど不景気じゃなかったし、そこそこ繁盛したものさ。で、二年ほどしてまた店を出したんだんだ。これも思いのほかうまくいった。でもそれがよくなかった。つい調子に乗っちまったんだな。商売の才能があるとかさんざんおだてられて、それからまた二年後に、さらに次の店を出すことになったんだ。いちばん最初に借りた開業資金すら返済しないうちにだ。さすがに迷ったけど、きっと上手くいくっていうイソダイの担当者のおだてと、ぜひ融資させてくれっていう銀行の甘い言葉に、つい魔が差しちまったんだな」
 一息つくと主はグラスで唇を濡らし、ふたたび話しを続けた。
「イソダイの紹介で横浜の駅前のビルに居抜きで店を借りたんだ。一等地だよ。でもあたりまえのことだが、すぐには客は入らねえ。毎月百万以上もの大赤字だ。何度も店を畳もうかと思ったけど、そのたびにイソダイの担当者の甘い言葉に決意が揺らいだ。軌道に乗ればすぐに儲けに変わります、ってな。銀行も同じだ。湯水のように融資してくれたさ。そうこうするうちに借金が膨らんで、それでも一年経ったころにはようやく客が増え始めた。毎月の収支もとんとんになって、さあこれから、というときだった――」
 そこでまた主はグラスを口に運び、今度は一息に飲み干した。祥子はボトルを手に取りそれを主のグラスに注いだ。
「あれだ、バブルの崩壊ってやつよ。いきなりきやがった。その店も、その前に始めた二軒の店も、とつぜん客が入らなくなって、たちまち運転資金が底をついちまった。けっきょく三軒とも店を失い、残ったのは膨大な借金だけよ。そのうち追い打ちをかけるように銀行が借金の返済を迫ってきた。景気のいいときは上手いこと言ってたくせに、いきなり手の平を返したような仕打ちだ。もちろん返せるわけがねえ。自己破産も考えたさ。でもそれだけはどうにも許せなかった。ああなったのはぜんぶてめえの責任だからな。借金をちゃらにしてのうのうと生きるわけにはいかねえ。だから家を売り、残った借金を、一生かけても返すことにしたんだ」
 祥子は黙ったまま主を見つめた。とても他人ごとのようには思えなかった。いや、同じような経験をしたといったほうが正しい。といっても彼女の場合はバブルの崩壊とはまた違った要因ではあるが――。
 主は続けた。
「でもな、働いて返すといっても、学もなければ、手に職があるわけでもねぇ。どうしたもんかとこいつと二人で途方に暮れてたんだ。死のうかとも思った。そんなとき、俺の古いだちが救いの手をさしのべてくれたんだ。想い出すなあ、なあ登美子」
 主が言うと、女将が遠くに視線を泳がせた。
「そうだわね。なんだか昨日のことのようだわ……」
「困り果てた俺たちを放っておけなかったんだろう。そいつが、亡くなった親の住んでた空き家をただ同然で貸してくれることになったんだ。それがここだよ。あのときはやつが神様のように思えたよ。死んだ気になってもう一度やり直そうと、こいつとそう決めたんだ。そしてその思いを忘れないようにって、七転八起って名前をつけたんだ。何度酷い目に遭っても、ぜったいに逃げねえってな」
「そうだったの……」
 祥子はそこでその話を終わらせようとも思ったが、お茶を濁すのはなぜか我慢ならなかった。現実から目をそらすのが卑怯なように思えたし、二人に気を遣うのも却って失礼だと思ったのだ。だから敢えてその質問を口にした。
「で、借金はいくら残ってるの?」
 主は少し悩む様子で顔を曇らせ、それでも静かに口を動かした。
「そうだな……ひとさまに言うような話じゃねえけど、祥子ちゃんは別格だ。身内みてえなもんだからな。聞いて驚くなよ、ざっと二億ってとこだ。頑張っても、利息を返すのが精一杯で、元金はたいして減りゃしねえ。それでも少しずつでも減らしたおかげで、不良債権扱いにならずに済んだんだ。ありがてえ話さ。おかげでこうして仕事ができて、なんとか生きていられる。それだけでも幸せってもんだ。なあ登美子」
「そうよ。むしろ生きてるって実感を味わえて、羽振りのよかった昔よりも幸せかもしれないわね」
 女将が丸い顔に明るい笑みを浮かべた。その顔を、祥子は複雑な思いで見つめた。一歩間違えば、かつて自分に襲いかかったような悲劇が、この二人の命を飲み込んでいたかもしれない――
 そのとき祥子の脳裏に、ふと気になることが浮かんだ。
「借りた銀行ってどこ?」
「三栄だ。三栄銀行」
 その瞬間、祥子の頬がピクリと動いた。
「三栄銀行、か……」
「どうかしたかい、祥子ちゃん?」
「ううん、なんでもない。そうだ、借金のことだけど、少しくらいなら私にもなんとかできるけど」
「だめだ。甘えた途端に、人間はだめになっちまう。フランチャイズをやってたあのころのようにな。なあ、登美子」
「そうよ。それよりも祥子ちゃん、これからもちゃんと店に来て、いっぱい食べていってよ。あたしらには、それがいちばんなの」
 女将が言うと、
「うん。いっぱい食べて、いっぱい飲むようにするわ」
 祥子は努めて明るく笑った。

―― 続きはこちら

2016年5月28日土曜日

執筆中の新作の冒頭部分をご紹介

 先日ご案内しましたとおり、執筆中の新作の冒頭部分を小出しにご紹介させていただきます。
ではさっそく本日分を。


陽はまた昇る、君の心に
如月恭介


 ※この作品はフィクションであり、 実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません



一 タックスヘイブン


 五月初旬にしては暑い日だった。沢井祥子は浜松町駅の改札を抜け、勾配のきつい階段を小走りに駆け下りた。駅前の大通りに出ると、額の汗を拭い、目を細めながら顔を上げた。巨大なコンクリートの塊が何本も、黄色い陽光を背にして、まるで摩天楼のように黒く浮かんでいる。
「三十度近くあるんじゃないの……」
 誰に言うでもなくぼやくと、祥子はふたたび歩を進めた。
 沢井祥子、三十一歳――
 歳のわりに若く見えるのは、化粧っ気のない童顔が理由かもしれないし、あるいはジーンズにスニーカーといったラフな服装がそう思わせるのかもしれない。といっても別に意図してそうしているわけではない。仕事がら、必然とそうなるのだ。
 五分ほど歩いて社に戻ると、事務所は大変な騒ぎになっていた。ドアを開けるなり、編集長の大嶋のだみ声が響き渡った。
「山下、すぐに高木電脳を洗ってくれ! 大竹、お前はソフトブレインだ!」
「はいっ!」
 ほぼ同時に返事をすると、二人は鞄をひったくり、脱兎のごとく駆け出した。茫然と立ち竦む祥子に向かって大嶋が声を上げた。
「おう、沢井か。で、どうだった?」
「真っ黒ですね。完全に政治資金規制法違反です」
「やっぱりな」
「これから裏を取ります。きっと、もっといっぱい出てきますよ」
 彼女はいま追いかけている案件――とある政治家による政治資金の私的流用の嫌疑に関する調査に、確かな手応えを感じていた。とうぜん「よし、徹底的にやれ」という答えが返ってくるだろう、そんな彼女の期待は、しかし見事に裏切られた。
「いや、それは後回しだ。それより大変なことになった。ほら――」
 大嶋が机の上のコピーを手に取り、彼女に向けて振った。その見出しを見た瞬間、祥子は首を傾げた。
「ケイマン・リークス? なんですかそれ?」
「いいから読んでみろ」
 祥子はコピーを手に取り、急いで目を通した。仕事がら速読は彼女の得意とするところだ。数十秒で内容を把握すると、祥子は顔を上げた。大きく見開いた目に驚きの様子がうかがえる。
「すごいのが出てきましたね。こんなものがいったいどこから?」
「ケイマンの法律事務所だ」
「法律事務所?」
「表向きはな。でも実態は、オフショア企業の口座の開設や、そこでの顧客の資産管理をするのが本業だ。まあ資産管理といっても、アレだ。租税回避や資産隠しの指南とか、あるいは資金洗浄の手助けとかいった、極めて違法性の高いものだ。で、見てのとおり、その顧客リストが流出したってわけだ」
「そんなものがどうして流出したんですか?」
「それはわからん。フランスのリールの地方新聞社に、匿名で送られてきたそうだ。おそらくハッキングか、内部告発といったところだろう。でもそんなことはどうでもいい。問題はその中身だ。なにしろこの法律事務所が手がけた二十万社以上ものペーパーカンパニーや、その所有者の名前が、いっさいがっさい記されているんだ。前代未聞のスキャンダルだ」
「でも本物なんですかね、そのリスト……。ねつ造ってことは考えられないんですか?」
「まずない。漏洩した情報にはこれらの信憑性を裏付ける資料も含まれているんだよ。電子メールのやりとりだとか、機密文書の写しだとか。それに契約書もだ」
「そんなものまで……」
「とにかく我々は最優先でこっちの方の案件に取りかかることにした。大物の高木電脳とソフトブレインはいまさっき山下と大竹に任せたところだ。あと三栄銀行も佐々木にたのんだ。お前は名簿を調べて、それ以外のめぼしいターゲットをリストアップするんだ。資料はサーバーに入れてある。すぐに取りかかってくれ」
「あ、はい」
 少し緊張した面持ちで返事をすると、祥子は自分の席に急いだ。
 座る前にパソコンの電源を入れ、それからゆっくりと腰を下ろすと、じっと画面に見入る。しかしこういうときに限って予期せぬことが起きるものだ。
「えーっ、なによもうっ!」
 システムの自動更新の開始を告げるメッセージに、思わず祥子の口から愚痴がこぼれた。
 それから五分ほどしてようやくシステムが立ち上がると、五十通近くもの新着メールは後回しにして、さっそく彼女は目的のファイルを開いた。
「すごい量ね……」
 それはそうだ。なにしろ二十万件以上もの顧客情報が収められているのだ。わかってはいても、実際にそれを目にするとどうにも驚きを禁じ得ない。ひととおり目を通すだけでも大変な作業だ。祥子は、まずは日本人が関係していそうな会社だけを抜き出すことにした。
 夢中で資料に向き合い、一息ついたときにはすでに五時間ほどが経っていた。時計を見ると夜の八時、窓の外にはすっかり帳が降り、隣のビルには黄色い明かりが煌々と灯っている。
 少し考えた後、祥子はパソコンの電源を落とし、黒いナイロン製のバッグにそれを押し込んだ。長丁場だ。まずは英気を養って、続きは自宅ですることにした。
「お先です」
 反応がないことはわかっていたが、いちおう声をかけた。あんのじょう皆仕事に夢中で、顔を上げる者さえいない。せいぜい編集長がチラリと視線を向けたくらいのものだ。とはいってももう慣れっこで、そんなことはまったく気にならない。ここはそういう社会なのだ。
 浜松町駅で山手線に乗り、品川駅で東海道線に乗り換える。横浜駅で下りると、少し歩き、「七転八起」という名前の定食屋ののれんをくぐった。
「おう、いらっしゃい」
 馴染みの声がする。禿げ上がった頭に白いハチマキをした店の主が、カウンターの奥の厨房で目尻にしわを寄せ、いかにも人の良さそうな笑顔を向けている。
「ずいぶんはええじゃねえか。で、いつものやつからいくかい? キンキンに冷えてるぜ」
「ううん、今日はお酒はなし。鯖の煮付け定食をお願い」
「おや、めずらしいじゃねえか」
「しょうがないわ。これからまだ仕事だし」
 祥子は二人がけの小さなテーブルの椅子を引いた。腰を下ろすと、小太りの中年の女将が冷たいお茶の入ったグラスを運んできた。
「お疲れさま。といっても、まだこれから仕事だったわね。大変ね、キャリアウーマンってやつも」
 これまた人の良さそうな笑顔でそう言うと、女将はグラスをテーブルの上に置いた。
「からかわないでよ、おばさん。キャリアウーマンどころか、とんだ肉体労働よ」
 祥子が色白の顔に苦笑いを浮かべると、女将は豊満な体を揺すって笑った。
「なに言ってるの、今をときめくジャパン・ウィークリーの記者が」
 すると店の奥から主の怒鳴り声が飛んできた。
「こら登美子、迂闊なこと言うんじゃねえ。誰かに聞かれたらまずいだろうがよ。なんたってアレだ、トップシークレットってやつだよ」
「いいのよ、おじさん。他にお客さんもいないことだし。あっ、ごめんなさい――」
 あわてて取り繕うも、時すでに遅し、主が皮肉交じりにぼやいた。
「ああ、どうせ客は祥子ちゃんだけだよ」
 機嫌を損ねた子供のような物言いに、つい祥子は吹き出してしまった。
 しかし店の主人の言ったことはそう間違ってはいない。ジャパン・ウィークリーはここ数年のスクープの連続で、世間に知らない者のいないくらいにその名声を馳せていた。とうぜん恨みも買っているだろうし、その記者であるとの噂が広まれば色々とやりづらくなるのは想像に難くない。
 食事を終えると定食代の五百円を支払い、祥子は店を後にした。そこから歩いて五分ほどのところが、彼女の住むアパートだ。閑静な住宅街、と言いたいところだが、実際にはそこはどぶ川沿いに安アパートの立ち並ぶ古びた街だ。薄闇を照らす街灯の明かりに、「リバーサイドハイツ・横浜東」と書かかれた表札がぼんやりと浮かんでいる。
 四十平米の1LDKで家賃八万円、ターミナル駅から徒歩十五分ということを考えれば格安だ。もちろんそれには理由がある。リバーサイドとは名ばかりでアパートのそばを流れるのは異臭を放つどぶ川だし、アパートはいまどきめずらしいモルタル造りの二階建てだ。といっても安アパートに住んでいるのは、お金がないからというわけでもない。実際彼女の収入は世間の一般サラリーマンのそれをはるかに超えていたし、貯蓄もそれなりにある。彼女がここを選んだのは、ただ、必要以上の贅沢を好まないという理由に尽きる。
 アパートの外階段を乾いた音を響かせながら駆け上り、祥子は鼠色のドアに鍵を押し込んだ。ドアを開け部屋に入ると、白いスニーカーを脱ぎ捨ててまっすぐ机に向かった。バッグから引っ張り出したパソコンを机の上に置き、電源を入れ、さっそくキーボードを叩き始める。
 ようやく一息ついたのは、五時間も経ってからだった。時計を見るともう深夜二時を回っている。
「お風呂にでも入るかな」
 ひとり呟くと、祥子は腰を浮かした。
 熱いシャワーを浴び、濡れたストレートの黒髪をバスタオルで拭きながら、祥子は小さな冷蔵庫の扉を開けた。うっすらと白く霞むその狭い空間にはびっしりと缶ビールが並び、それ以外にはほとんど何も見当たらない。その内のひとつを掴むと、彼女はふたたび机に戻った。後回しにしておいたメールのチェックを始める。といってもほとんどがゴミ箱行きだ。重要な案件であれば電話がかかってきているに違いないのだ。メールのチェックを済ませると、今度はニュースサイトを開いた。彼女の部屋にはテレビはない。理由は至って簡単だ。スポンサーの利害によってよけいな脚色がされた情報は、彼女のような者にとっては百害あって一利なし。調査の勘を鈍らせるだけなのだ。
 今夜の、いやもう朝方といった方がいいかもしれない――のネットのニュースサイトは例の政治家の不祥事の話題で持ちきりだ。そう、つい昨日まで彼女が追っていた、あの政治資金の私的流用の事案である。
「まったく遅れてるわね……」
 彼女に言わせれば、それはもはや過去の出来事に過ぎなかった。もう完全に詰んだ将棋のようなものだ。この先は放っておいても勝手に話が進んでいくに違いない。しかもそれは、たかだか強欲な政治家ひとりに引導を渡すに過ぎないことだ。でも今度の事案はスケールが違う。世界の常識をひっくり返してしまうほどの、今世紀、いや、近代経済史上最大の大事件に発展する可能性を秘めているのだ。
「楽しくなってきたわね」
 早くも半分近くに減った缶ビールを片手に、祥子は、微かに火照った顔に不敵な笑みを浮かべた。

―― 続きはこちら

2016年5月27日金曜日

のらりくらりと新作を執筆中です

 先にご紹介した新作(End of the Earth ―地球最後の日―) は後回しにして、別の作品の執筆に勤しんでおります。
 発表はまだ先になりますが、とりあえずその概要と進捗状況を、当ブログで報告させていただきたいと思います。

追記) 冒頭部分を一部掲載しました

 次作は小生初めての本格的経済小説になります。

 本日は、そのコンセプトをご紹介させていただきたいと思います。追って後日、冒頭部分を公開する予定です。では――



陽はまた昇る、君の心に


 粉飾決算、横領、脱税、法令違反――
 世間を騒がす企業不祥事の数々。しかし皆の目にする情報はおよそ事実とはかけ離れた虚像にしか過ぎない。
 ニュース等では語られない生々しい経済の実態。
 利益至上主義を正当化する現代資本主義、それを構築し維持する資産家や権力者、あるいは既得権益者たち。遠心分離機にかけたように富は二極化し、道義や誠意は、拝金主義の下に蔑ろにされる。

 本作品は、架空の経済小説である。と同時に、実際にいま我々が直面している重大な問題に焦点を当てた、ノン・フィクションの一面も併せ持っている。

 著者は断言する。今のままだと、貧富の差が拡大することはあっても、けっしてそれが縮まることはない。強きものはますます横暴に、弱きものはますます脆弱に――

 本小説は、そのカラクリを解き明かし、微力ながらも、これから進むべき道を考えるヒントとなることを期待して執筆した作品である。

 知識や経験不足、思慮不足、至らない点は多々あることを承知の上で、この作品が皆さまの考察の一助となれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。

追記) 冒頭部分を一部掲載しました

2016年5月5日木曜日

Kindle本ポイント還元セール実施中

アマゾンにてKindle本の最大20%のポイント還元セールが実施中です。
この機会に購入を検討されてみてはいかがでしょうか。いつ終了するかわからないのでなるべく急がれた方がいいかと思います。
http://www.amazon.co.jp/b?node=3085855051

小生の作品もその多くが対象になっています。ぜひ
http://www.amazon.co.jp/%E5%A6%82%E6%9C%88%E6%81%AD%E4%BB%8B(@KyouskeKisaragi)/e/B00A0IHXZC/ref=ntt_athr_dp_pel_1

以上、宣伝でした。