それから一週間後――
祥子は例のリストの精査を続けていた。めぼしい会社をピックアップしてはその会社にかかわる情報を洗い出し、それらをとりまとめて編集長に報告する。すでに全リストの三分の二ほどを調べ終え、五十件ほどの会社を抽出していた。どれも叩けば埃の出そうな、怪しいものばかりだ。
「もう少し調べたらお昼にするかな」
十一時半を回った時計に目をやり、彼女はひとり呟いた。そしてふたたびパソコンに向かって両手を伸ばした。カタカタとキーボードを叩きながら、その目はじっと画面を追いかける。
とそのとき、彼女の手が止まった。
「イイジマ・タケシ……」
聞いたことのない名前だ。住所は横浜市の西区みなとみらい、祥子のアパートからそう遠くない場所だ。その男はフェニックス・パートナーズという、これまた聞いたことのない会社の役員に名を連ねていた。無名の会社の無名の男、しかも代表ではなくたんなる役員、本来なら迷わず無視するところだが、なぜか祥子はその男のことが気になった。どうせ昼まで中途半端な時間しか残っていない。この会社のことでも調べて午前の仕事は終わりにしよう――祥子はさっそく膨大な資料の検索を始めた。
それから二十分後、祥子は椅子の背もたれに寄りかかり、じっと考え込んでいた。頻繁に行われる資金の移動、しかも毎回数億ドルにも及ぶその膨大な金額。はたしてこの会社を調査対象にすべきかどうか――しかしこの会社の代表はマイク・ダグラスという、住所がサンフランシスコのアメリカ人だし、これを追いかけるのは自分たちの仕事じゃない。放っておいてもアメリカの当局が調べるに違いない。そう考えて、彼女はパソコンの蓋を静かに閉じた。
それからさらに二週間が過ぎ、またもやジャパン・ウィークリーのスクープが世間を騒がせた。そして同時に、身に覚えのある企業や資産家たちを震撼させた――
『三栄銀行の不可解な取引』
ケイマン・リークスのリストに三栄銀行の名前があがっていたことはすでに報じられていたが、それ自体は特に驚くことではなかった。なにしろかつて国際決済銀行(BIS)が公表した資料によれば、百兆円をも超える膨大な日本の投融資資産が租税回避地で運用されているのだ。そしてそのうちの六十兆円強がケイマン諸島で運用されていることも明らかになっていた。といっても租税回避地に会社を設立すること自体は合法であり、そこを通じてオフショア・ファンド等で資産運用することも違法ではない。だからこれまではそのことが特に大きな問題として報じられることはなかった。
ただしそれは、租税特別措置法にしたがって適切な税務処理がなされていればの話だ。もしそれに違反していればもちろん違法行為ということになる。しかし租税回避地での取引は厳格な秘密保護によって守られていて、現実にはその資金の流れを捕捉することは不可能に近い。
ところが今回のケイマン・リークスの漏洩により、その資金の流れの一部が明らかにされたのである。
それは祥子がケイマン・リークスのリストから抽出した、ある日本人の所有するペーパーカンパニーの調査が発端となった。そのある日本人というのは、徳田商事の会長、徳田武彦である。ケイマンにある徳田の所有する会社が、やはりケイマンにあるイースト・ファイナンスという会社から八十億円もの投資信託を購入していたのだ。といってもこのこと自体には問題はない。問題はこのイースト・ファイナンスという会社の所有者である。ケイマン・リークスの情報からこの会社が、じつは三栄銀行の子会社であることが判明したのだ。
祥子の報告を受け、さっそくジャパン・ウィークリーの編集長・大嶋は、編集部員の佐々木にさらなる調査を命じた。そしてその結果、限りなく怪しい取引の実態が浮かび上がったのである。
イースト・ファイナンスが徳田の子会社に販売した八十億円の投資信託は、じつはイースト・ファイナンスが、キプロスにあるSBトラストという会社から五十億円で購入したものだった。キプロスも租税回避地であり、通常であればその取引は表に出てこない。しかし今回の調査で、そのキプロスのSBトラストも三栄銀行の子会社であることが判明したのだ。しかもそのキプロスの投資信託は、徳田が会長を務める徳田商事が二百億円で購入したものであることがわかった。
もう少しわかりやすく時系列に並び替えて説明すると、徳田商事は三栄銀行の子会社であるキプロスのSBトラストから二百億円の投資信託を購入した。それがケイマンのやはり三栄銀行の子会社、イースト・ファイナンスに五十億円で売却された。これによって徳田商事は百五十億円もの損失を出した。しかし一方でその五十億円の投資信託は、ケイマンの徳田会長個人の所有する会社に八十億円で売却された。ここで重要なのは、売却価格が八十億円といっても、この投資信託の実際の価値は(運用による損益を無視すれば)二百億円だということだ。
つまり収支をざっくりと机上計算すると、
一.徳田商事が百五十億円の損失を計上。
二.ケイマンのイースト・ファイナンス(三栄銀行の子会社)が三十億円の利益を計上。
三.徳田会長個人が、実際価値二百億円の投資信託をわずか八十億円で取得。
ということになる。もしこれが事実だとすれば、脱税どころのさわぎではない。徳田商事の失った百五十億円が、三栄銀行の三十億円の手数料と、徳田会長の実質百二十億円(二百億円―八十億円)の投資信託に化けてしまったのだ。脱税、横領がセットになった、前代未聞の大事件である。
これまでも、複数の租税回避地を利用することで資金の流れを複雑にし、当局の目をごまかす手法が横行していることは指摘されていたが、その実態の多くは掴めないでいた。しかし今回のジャパン・ウィークリーのスクープにより、その一端が明るみに出たことになる。
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