2013年8月18日日曜日

サルでも出来る、反省 ―個人出版―

 人間の欲というものは、まったくもってだらしない。

 僕は多くの個人出版作家さんたちとは違い、新参者である。だから同人誌とかいうものも名前は聞いたことがあっても、実は良く知らない。ほんの3年前までは、芥川賞と直木賞の違いすらも知らなかったのだ。

 子供の頃から国語が大の苦手だった。誤字脱字が多いのもそのせいかもしれない。当然読書も嫌いで、専ら漫画を読んで幼少時代を過ごした。でも、唯一の例外がある。江戸川乱歩の怪人二十面相だ。小学校の図書室で借りては、読みふけった。ルーズな僕は返却するのを怠り、家には背表紙にラベルの貼られた怪人二十面相の本が、いつも4、5冊くらい転がっていた。

 高校生なると、少し小説を読み始めた。五木寛之さんの「青春の門」や、遠藤周作さんのエッセイなどだ。でもやはり主役は漫画だった。特にはまったのが、手塚治虫さんの「ブラック・ジャック」。 この本は僕の人生までをも変えてしまった。

 学生時代はまったく本を読まなかった。小説どころか、教科書も。そして社会人になった。もう小説を読むどころの騒ぎじゃなかった。英語で書かれたコンピュータのマニュアルに、僕はすっかりはまってしまった。僕の書いた「優しい悪魔」に登場する「ジャック」は、まさにあの頃の僕を投影したものだ。

 そんな僕が再び小説を読み始めたのは、たまたま書店で見かけたある本がきっかけだった。インドの考古学者、ゼカリア・シッチンの著作である。僕は夢中で読みふけった。あまりに非現実的な見解、ありえない歴史観。でも僕にとっては、あり得る、いや、きっとそうに違いないと思えるような、目が覚めるような斬新な見解だったのだ。

 それから何年も仕事に忙殺される日々が過ぎ、でもいつも僕の心の中にはシッチンがいた。彼が唱えるあの摩訶不思議な歴史の中で、物語を紡ぎたい――いや、実際僕の頭の中では、様々なストーリーが出来上がっていた。

 2年と10ヶ月前に(いきさつは過去のBlogを)、小説を書こうと思い立った。そしてもちろん書きたかったのは、シッチンの世界である。しかしすぐに行き詰まった。思ったことを文章に出来ないのだ。それだけじゃない。一人称と三人称の違いもわからなければ、カッコの使い方もわからない。試行錯誤を繰り返しながら、少なくとも自分では読めるような文章が書けるようになった。

 ちょうどその頃、電子書籍という新しいプラットフォームが芽生え始めていた。僕は飛びついた。でも、ひどいありさまだった。ツールも整備されていない頃の(ほんの2年前なのに・・・)話である。PDFに変換したファイルをアップロードする。読み難いったらありゃしない。しかも、読者はほとんどいない。僕の記憶では、一年間でダウンロードしていただいたのは、せいぜい五人くらいだったように思う。

 世界が変わったのは、昨年の暮れ。あのアマゾンが、米国ではすでに運営していた個人向けの出版業務を、この日本でも開始したのだ。嬉しかった。いや、信じられなかった。そしてその時から僕の世界が、劇的に変わり始めた――

 今でもたまに僕は、ちっとも本が売れないと嘆く。とんでもない愚か者である。馬鹿な人間は、ちょっと調子に乗るとすぐに傲慢になる。その典型が僕だ。誰もが閲覧でき、無料キャンペーンをはれば数百冊の本をダウンロードしていただける。これ以上、何を望もうと言うのか。

 ちまたでは、電子書籍の普及を危ぶんだり、KDPのような個人出版に対する否定的な意見も多見される。僕は言いたい。

間違ってますよ、あなたたち


 ほんの僅か1年で、世界がすっかり変わってしまった。この先の数年なんて、誰にも予想なんて出来ない。今でもすっかり素晴らしい環境を得られたわけだけれども、まだまだだ。作品さえあれば、未来はもっと広がる。でも作品がなければ何も始まらない。


だからこそ、書き続けなければならない。

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