2013年9月10日火曜日

オリンピックがやってくる!

コングラッチュレーション!

 7年後に、自分の娘が活躍する姿を妄想しながらにやける、日本一のバカおやじの参上です。

 それにしても感慨深いものです。東京オリンピックと言えば、もちろん1964年の、いや、1960年代の最大の一大事であり、あの大会が今の日本を築いたと言っても過言ではないでしょう。

 若い人たちは知らないかもしれませんが、当時の日本は、今の日本とはまるで別物でした。特に地方はそうです。土間にしつらえられたかまどでご飯を炊き、洗濯板で服を洗い、洗髪をするのは2日に一度でした。電話なんて町内(お店をやっていた僕の家)に一台しかなく、毎日近所の人を呼んで回っていたものです。でもそれが当たり前で、それが貧乏だとか、不便だとか思っている人間は、一人もいなかったのです。それがみるみる世界が変わり、鼻くそほじってたガキが首からナプキンをかけてフォークを握り、ステテコで散歩していたおっさんがまるで似合わないスーツを着るようになりました。

 と、ずうっと思っていましたが、どうやら都会は少し違っていたようです。当時の東京の様子が、僕の敬愛する奥田英朗さんの、

 オリンピックの身代金

 という小説に、見事に表現されています。出稼ぎにヒロポンに学生運動――当時の世相をリアルに描写した、素晴らしい小説です。

 と前置きはこのくらいにしておいて、本題に入りたいと思います。

 さて、高度成長に浮かれて国中がむしゃらに駆け続けた時代もとっくに終わり、世間で言うところの”失われた二十年”が矢の如く過ぎ去ってしまいました。そして皆が、あの頃はよかったと、不毛な懐古主義に染まっている今日この頃です。でも本当にそうなのでしょうか?

 僕は思うのです。永遠に続く成長などあり得ないし、実は、かつて日本が目指していた世界こそが、今の日本なのではないか、と。ただそれを青写真に描けなかったが故に、今の現実を許容できないでいるのではないか、と。

 こいつ、ついに壊れたな……

 無視します。で、最近よく言われるのが、社会保障や税負担の増加です。でも僕は思うのです。実はこれは、社会が成熟した証なのではないか、と。そして本来であれば、あの高度成長の時代にこそ、その先に来るであろう、成熟した社会を青写真に描いておくべきだったのではないのか、と。

 ある人の収入は、ある人の犠牲の上に成り立っています。足せば実はゼロなのです。それなのに、その犠牲になった人を、”努力が足りない”、”能力がない”と言って否定することで、今の資本主義は成り立っているわけです。

 30年前に比べて僕の生活は驚くほど豊かで便利になりました。でも決して、世界中の人がそうなったわけではありません。僕たちは、とても幸せな環境に置かれているのです。喉が乾いて死ぬ思いをすることもなくなったし、お腹が空いて人様の物を盗む必要もなくなりました。でも、それを有り難っている人は、露ほどもいません。それが当たり前だと思っているし、それどころか、まだ物足りないとさえ思っているのです。

 まったくもって傲慢だな

 い、いえ、僕が言ったんじゃありません。どこからか聞こえてきた幻聴です。

 またまた脱線してしまいました。話を戻します。そう、7年後のオリンピックです。7年後と言えば、今の小学生、中学生が活躍する時代です。その頃日本はどうなっているのでしょうか。それを決めるのは、我々大人です。今回の招致の活動の中で、あの滝川クリステルさんが、とても素晴らしいスピーチをしました。そう、

 おもてなし

 です。とても深い言葉です。自己の利益を犠牲にしてまで、人の笑顔が見たい――。これぞまさに、僕たち日本人の誇るべき文化であり、誇り高き民族性だと思うのです。西洋的な資本主義にはまったく逆行する(要するに、無駄な)思想かもしれませんが、これこそが、7年後のオリンピックに向けて、僕たち日本人が守るべき『美徳』なのではないのかと思うのです。

 知らないうちに日本は、共存共栄的な社会主義国家になりつつあるのかもしれません。でもいいじゃないか、と僕は思うのです。弱き者を助け、横暴な権力には牙を剥く。その先に、きっと素晴らしいオリンピックが待っている。きっと世界中の人が感動することでしょう。

 なんて素晴らしい国だ、ニッポン!

 

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